職業野球を追いかけて

引退したプロ野球選手を紹介するブログです。主に戦前・戦後直後から現在のプロ野球まで幅広く扱います。

悩み多き男、永利勇吉

(2014/5/24 追記 クラシックSTATS鑑賞、たばとも様より情報提供)

35年前の今日、1979年5月23日に大下弘が亡くなった。
彼の死は心筋梗塞が原因であったと報じられたが、後に睡眠薬を多量摂取したことによる自殺であると判明した。
自殺したプロ野球選手というのは何人か存在するが、今回はその中の一人、永利勇吉を紹介する。
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永利 勇吉 ながとし・ゆうきち
1920年生まれ 福岡県出身
身長:5尺6寸(170cm) 体重:19貫(71kg)
右投げ左打ち 嘉穂中学-立教大学-星野組-阪急(1948~1949)-西日本(1950)-西鉄(1951~1955)
永利
 
立教大学には外野手として入部。
しかし、昭和17年春(1942年)のシーズンを前にチームの捕手不足から捕手に転向。
別府星野組では荒巻とバッテリーを組み、都市対抗では久慈賞を受賞した。

阪急入団後は日比野武、 楠安夫の二人と捕手のポジションを争った。
49年の阪急はこの三人のレギュラー格捕手が自慢だったが、二リーグ分裂時に日比野と永利が西日本へ、楠が西鉄へ移籍したため、いきなり捕手不足へと陥った。

西日本移籍後は日比野がレギュラー捕手になったため、外野手へ転向。 
主に3番を打ち、.304 21本 80打点とキャリアハイの成績を残す。
また、リーグ最多の12三塁打を放ち、15盗塁を残しているため脚の速さでも、活躍していたものと思われる。

だが、この好調も長くは続かない。
1951年こそ好調を持続できたが、1952年には絶不調に陥ってしまう。(もっともこの頃はリーグ全体が打低だったが)
さらにこの年の8月9日に永利は兄の自宅で睡眠薬アドルムを二十錠飲み、自殺を図った。
原因はわからないが、自身の不調が応えたのだろうか。
幸いこの自殺未遂は意識が昏睡するだけで済んだが、 以降も永利の調子は上がらず、1955年に引退することになった。

引退後は九州朝日放送で野球解説者を務めていたが、1962年6月27日、貨物列車に飛び込み亡くなった。
新聞社用の原稿用紙には「能力もなく忘れようと酒にたよって自分を浮かび上がらせようとあせっても、ますます深みにおちいるばかりだ」という遺書が書かれていた。

野球選手の間も野球を辞めたあとも、永利は悩みを払拭することができなかった。
立教大学時代は明るい性格だったようなのだが、根は真面目で考えやすい性格だったのだろうか。
1962年6月28日付、スポニチ東京版の記事には西本幸雄のコメントが載っている。
「あいつは立大で一緒にプレーしたし、戦後星野組でも都市対抗優勝のときの仲間、それだけに自殺なんて一体どうしたわけなんだろう。学生時代からまっ正直な男だったからこうした性格がかえって自殺に追いやったのかもしれない」


※参考文献 雑誌『ベースボール』 読売新聞 阿部牧郎『人物日本プロ野球史』 立教大学野球部 スタメンアーカイブ クラシックSTATS鑑賞たばとも様