職業野球を追いかけて

引退したプロ野球選手を紹介するブログです。主に戦前・戦後直後から現在のプロ野球まで幅広く扱います。

1957年の代打男、川本浩司

(2014/5/24 追記)
新聞で職業野球を調べていたときに気になった選手、川本浩司についてここで取り上げる。
wikipediaなど、インターネットに情報がほとんど掲載されていない選手だ。

川本 浩司 かわもと・こうじ
1934年生まれ 京都府出身
身長:5尺6寸5分(171cm) 体重:17貫(64kg)
右投げ右打ち 山城高校-関西学院大学-大映(1955~57年)
川本

関西学院大学時代は捕手として活躍。
大学卒業直前に肩を痛めたために(二塁へのモーションが大きかったことも影響したようだ)一塁手への転向をはかった。
入団初年度の1955年、開幕3試合目の阪急戦でいきなりスタメン四番ファーストを任せられるなどバッティングを期待されていたようだが結果は残せず。
結果を残せなかった要因の一つとして右打者でありながら左投手を苦手としていたことが上げられる。
左投手の中でも特に阪急・梶本を苦手としていたようだ。 

二年目の1956年には一塁手に本格的に転向。一塁手として51試合にスタメン出場を果たす。藤本監督曰く「キャッチングはうちのチームで一番巧く、頭がいい」とのことだが、やはり痛めた肩の影響が大きかったのだろう。
左の一塁手滝田政治との併用で使われていたようだが、右打者でありながら左投手が苦手な川本をツープラトンで起用する意味はあまり無かったと思われる。
この年の開幕前に、脚の速さを見込まれて外野に転向するプランもあったようだが実現はしなかった。
前年と比べ、打率は上がったが何故か四球数が大きく減っている。そのため、出塁率は.298から.282に大きく減少。

三年目、1957年はスタメン出場の機会がわずか13試合に終わる。
だが、この年の川本はパ・リーグナンバーワンとなる76回の代打起用をされた。 
それだけ打つ方での期待が大きかったということだろうか。それとも川本以外に起用できる選手がいないほど大映の選手層が薄かったのか。
この年、76回も代打起用されながら打率.186、出塁率わずか.228に終わったことを考えると、おそらく後者の予想が正しいのだろう。 

そして川本はこの年のオフ、大映ユニオンズ毎日オリオンズと合併したときに、ユニオンズを退団している。
どうも新生大毎オリオンズの監督、別当監督の構想に入っていなかったようだ。肩を痛めた一塁専任の川本は使いづらい選手だったのかもしれない。入団していたとしても、当時のオリオンズの一塁手はあの榎本喜八だ。彼からポジションを奪うことは難しかっただろう。
つくづく肩の怪我が惜しまれる。キャッチングやリードには非凡なところがあったようなのだが……。


※参考文献 読売新聞 雑誌『野球界』 スタメンアーカイブ ベースボールエンサイクロペディア 1957年大映スターズ選手名鑑